2006年08月06日

白梅の塔

沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒たちが眠る白梅の塔は、いつも観光客で賑わっているひめゆりの塔とは対照的に、静かな森の中にひっそりと立っています。
県立第二高等女学校は琉球松の生い茂った松尾山という小高い丘の上にありました。白壁の美しい木造二階建ての校舎だったそうです。周りには知事官舎や那覇市長官舎、県立病院などがあって、静かな環境でした。
昭和19年の10月10日、那覇市は米軍の大空襲に見舞われて、街は焼け野原と化してしまいます。二高女の校舎も焼け落ちてしまい、授業は焼け残った建物を借りて続けられました。しかし、戦争が近づいて来るに従って、授業よりも勤労奉仕が多くなり、小禄飛行場の排水溝掘りや高射砲陣地の構築作業に駆り出される日々が続きます。
翌年の3月になって、四年生は補助看護婦として働く事に決まり、二高女は第24師団(山部隊)の第一野戦病院に配属されます。山部隊の第一野戦病院は八重瀬岳の山中に掘られた人工壕でした。
4月1日、米軍が沖縄に上陸すると重傷者が次々に前線から運び込まれ、二高女の生徒たちは休む間もなく働き続けます。まだ16歳の女の子が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいた蛆虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりと想像を絶する働きをしました。絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下を掻い潜って、水汲みに行ったり、飯上げをしていたのです。
5月の末、沖縄守備軍は首里を捨てて南部へと撤退します。八重瀬岳にも敵兵が近づいて来て、6月4日、山第一野戦病院も解散になり、生徒たちは数人づつに分かれて、砲弾の炸裂する中、南へと逃げて行きます。逃げるといっても当てなどありません。追い詰められたあげく、生徒たちは悲惨な最期を迎えるのです。
戦後になって、師範学校女子部と第一高女は校友会誌の名前から、ひめゆり学徒隊と呼ばれ、二高女は校章の白梅から白梅学徒隊と呼ばれるようになりました。

※昭和19年の教育制度は義務教育の六年制の国民学校があって、その上に、男子は四年制の中学校、女子は四年制の女学校がありました。女学校の四年生は現在の高校一年生です。

「白梅の塔」の地図

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


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ラベル:沖縄戦
posted by 酔雲 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和時代>戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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