幼い頃は時太郎、元服してからは鉄蔵が本名です。
20歳の頃、役者絵で有名だった勝川春章の門人となって、勝川春朗の画号を貰います。時々、群馬亭や白山人可候を名乗る時もありますが、36歳頃までは春朗を使っています。春朗時代は主に黄表紙の挿絵を描いていたようです。
37歳の正月に売り出した狂歌集で、北斎宗理を名乗り、その後、春朗を使う事はありません。41歳の時には北斎辰政、42歳では画狂人北斎を名乗ります。この頃は狂歌本の挿絵を数多く描いていて、自画自作の黄表紙を書く時には時太郎可候という号も使っています。この可候という号は渓斎英泉に譲られ、英泉が文章を書くときに一筆庵可候と号しています。
47歳の頃から葛飾北斎を名乗り、この頃より読本の挿絵に熱中します。曲亭馬琴と組んで、「椿説弓張月」などの傑作を残します。
55歳の時、「北斎漫画」を売り出し、これが大いに受けて、北斎の名は日本中に知れ渡ります。以後、「北斎漫画」の続編が何作も作られ、北斎の名を弟子に譲った後も、この本だけは北斎の名で出しています。
56歳の頃に北斎戴斗、還暦を過ぎてからは為一と改めます。「富嶽三十六景」は68歳の時に描き始めて、74歳の時に完成しています。
75歳の頃に画狂卍と名乗り、晩年は肉筆画に熱中していたようです。90歳で亡くなるまで、決して絵筆を離さず、死ぬ時になっても自分の絵に満足しなかったようです。まだまだ、遣り残した事があると無念の想いを残して、あの世へと旅立ちました。
掃除をするのが面倒くさくて、部屋が汚れる度に引越しを繰り返していた北斎は、名前にもこだわる事なく、気分転換のつもりで色々と変えていたのかもしれません。
天明3年、まだ売れる前の春朗時代の北斎が浅間山を描くために鎌原村に行ったかどうかわかりませんが、旅が好きな北斎のことだから、もしかしたら浅間焼けを見に行ったかもしれません。小説に色を添えるつもりで、「天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記」に北斎に登場してもらいました。








ラベル:浮世絵師