2006年07月13日

真田一徳斎

真田昌幸の父親、一徳斎幸隆は信濃の国、真田郷に生まれますが、天文10年の5月、29歳の時に武田信虎らに攻められて故郷を追われます。5歳の信綱と生まれたばかりの昌輝、他にも女の子がいたかもしれませんが、幼い子供たちを連れて、故郷を離れなくてはなりませんでした。
その事件の一月後、信虎は息子の晴信に追放されます。
故郷を追われた幸隆は上野の国に行って、平井城の関東管領上杉氏を頼ります。しかし、上杉氏は頼りにならないので、箕輪城の長野氏を頼ります。
2年近く、上野の国にいて、信濃の国の様子を眺めていた幸隆は、武田晴信に仕える決心を固めて甲斐の国に行きます。その後は、武田軍の信濃先方衆として活躍して、真田郷を取り戻します。
永禄2年、晴信が出家して、信玄を名乗ると、幸隆もならって出家し、一徳斎を名乗ります。
永禄4年、武田軍の上野進攻が始まり、一徳斎は大将として吾妻郡に出陣します。難攻不落といわれた岩櫃城を落とし、岳山城も落として、吾妻郡を武田の領国とする事に成功します。
天正元年、信玄が亡くなり、翌年、信玄の後を追うように、一徳斎も亡くなります。62歳でした。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


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ラベル:武将
posted by 酔雲 at 15:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
一晩お付き合いしてください
Posted by まゆみ at 2006年07月15日 14:37
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