その事件の一月後、信虎は息子の晴信に追放されます。
故郷を追われた幸隆は上野の国に行って、平井城の関東管領上杉氏を頼ります。しかし、上杉氏は頼りにならないので、箕輪城の長野氏を頼ります。
2年近く、上野の国にいて、信濃の国の様子を眺めていた幸隆は、武田晴信に仕える決心を固めて甲斐の国に行きます。その後は、武田軍の信濃先方衆として活躍して、真田郷を取り戻します。
永禄2年、晴信が出家して、信玄を名乗ると、幸隆もならって出家し、一徳斎を名乗ります。
永禄4年、武田軍の上野進攻が始まり、一徳斎は大将として吾妻郡に出陣します。難攻不落といわれた岩櫃城を落とし、岳山城も落として、吾妻郡を武田の領国とする事に成功します。
天正元年、信玄が亡くなり、翌年、信玄の後を追うように、一徳斎も亡くなります。62歳でした。







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