父の一徳斎は戦に敗れて領土を失い、一時は浪人となって上州に隠れていました。昌幸が生まれた頃は武田信玄に仕えていましたが、まだ、領土を取り戻す事はできず、甲府にいたのかもしれません。
昌幸5歳の時、父親は戸石城を攻め落として、領土を取り戻し、真田に復帰します。そして、上州攻めの先鋒となって活躍します。
昌幸は7歳の時、人質として甲府に行き、武田信玄の奥近習として仕えます。人質とはいえ、父親が活躍しているので、昌幸の待遇はよかったようです。信玄の側近くに仕えて、武将としての心構えを自然と身に付けていきます。
18歳の時、足軽大将の遠山右馬助の娘を嫁に迎え、20歳の時、甲斐の国の名族で、信玄に滅ぼされた武藤家の名跡を継いで、武藤喜兵衛と名乗ります。この時点で、昌幸は実家の真田家とは縁が切れます。このままの状態でいれば、昌幸は武田家の重臣として勝頼と共に滅び去った事でしょう。
27歳の時にお屋形様であり、師でもあった信玄が亡くなり、29歳の時に、長篠の合戦が起こります。その合戦では武田家の主だった重臣たちが数多く戦死してしまいますが、昌幸の二人の兄も亡くなってしまいます。急遽、昌幸は実家の跡を継ぐ事になって真田姓に戻ります。
真田に帰った昌幸は多くの家臣を失った真田家を建て直して、領土を広げるために沼田へと進攻します。
越後の上杉氏、小田原の北条氏と戦いながら、5年後には見事に沼田攻略に成功します。ところが、その2年後、主家の武田家が織田信長によって滅ぼされてしまい、昌幸は戦国大名として独立の道を選び、真田から沼田までの領土を守り抜くために戦い続ける事になります。
真田喜兵衛昌幸の略歴






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