2006年06月17日

戦国時代の草津温泉

草津温泉は源頼朝から姓と家紋を授かったという湯本氏が代々領主として温泉を守って来ました。
記録によると明応4年(1495)に太田の金山城主、横瀬成繁が300人の供を連れて湯治に来たとあります。当時、300人を収容できる宿屋があったようです。
文亀2年(1502)には連歌師の宗祇と宗長が越後から来ています。宗祇は越後の守護だった上杉氏と仲がよく、上杉氏の紹介で草津に来ました。当時、草津の湯は越後でも有名だったようです。
大永6年(1526)には越後の守護代だった長尾為景が草津に来ます。為景は上杉謙信の父親です。
当時、上野の国(群馬県)は関東管領の上杉氏の支配化で、上杉氏が勢力があった頃は比較的、平和だったのですが、時の流れによって、上杉氏も新興勢力の小田原の北条氏に敗れてしまいます。国を追われた上杉氏は越後の長尾景虎を頼って、上杉姓と管領職を譲ります。長尾景虎は上杉謙信と名を改め、上野の国を取り戻すために関東に攻め入ります。さらに、管領のいなくなった上野の国を奪い取ろうと西からは武田信玄が攻めて来ます。
上杉、北条、武田の三つ巴の決戦が上野の国において始まります。上野の国の西に位置している草津温泉は武田の先鋒として攻めて来た真田幸隆に従います。
当時の草津の領主は湯本善太夫です。善太夫が武田信玄に白根山で採れた硫黄を献上した記録が残っています。硫黄は鉄砲の火薬を作るために使われたようです。善太夫は真田幸隆に従って、岩櫃城攻撃や、岳山城攻撃、白井城攻撃に加わって戦功を挙げ、草津の入口にあたる長野原の地を信玄より賜っています。
信玄亡き後、善太夫は武田勝頼に従い、長篠の合戦に参戦して戦死してしまいます。吾妻郡の多くの武士たちが真田氏に従って長篠の地で亡くなりました。
善太夫の跡を継いだのは甥の三郎右衛門で、三郎右衛門は真田家を継いだ昌幸に従って活躍します。
天正10年(1582)、武田家が織田信長に滅ぼされた後、織田家の家臣の丹羽長秀、堀秀政らが草津に来ています。
天正15年には、公家の近衛前久が草津に来て、歌を残しています。同じ年に、徳川家康の奥方で、豊臣秀吉の妹、朝日姫も来ています。翌年には秀吉の養子だった秀次も来ています。
豊臣秀吉自身も文禄4年(1595)に草津に来る予定で準備を始めていたのでしたが、急遽、中止となりました。秀吉が来るとなれば、宿屋も新築しなければならず、警備も厳重にしなければならず、色々と大変な事だったでしょう。秀吉の親友だった加賀百万石の前田利家は慶長3年(1598)に草津に来ています。

 草津温泉の年表

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


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ラベル:草津温泉
posted by 酔雲 at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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