2006年06月06日

江戸時代の草津温泉

上州の草津温泉は江戸時代の初期まで真田家の家臣だった湯本家の支配地でした。
湯本家は鎌倉時代より代々草津の領主として、草津の湯を守って来ました。戦国時代の領主だった湯本善太夫は武田信玄に仕えて、長篠の合戦で戦死しています。善太夫の跡を継いだのが湯本三郎右衛門で、真田昌幸の家臣となって活躍します。三郎右衛門の子供たちは大坂の陣に出陣しています。
1665年、跡継ぎがいないとの理由で湯本家は断絶させられます。そして、1681年には沼田の真田家も改易され、草津の地は幕府の直轄地、天領となります。領主だった湯本家の子孫たちは安兵衛家、平兵衛家、角右衛門家の三家に分かれて宿屋を経営します。
安兵衛の宿屋は湯畑の北側、滝の落ちている先に、平兵衛の宿屋は湯畑の東側、現在の大東館の所に、角右衛門の宿屋は湯畑の西側、今のゲームセンターの辺りにあったようです。一等地に宿屋を持っていた湯本三家を中心に草津の湯を守って行きます。
ちなみに、湯畑(ゆばたけ)と言うのは、湯の花を採る畑という意味です。江戸時代はまだ、湯の花の採取はしていなかったので、湯池と呼んでいました。
湯本平兵衛が残した記録によると、十返舎一九たちが草津に行った文化5年(1808)の草津に来たお客さんの数は12,660人で、その内の778人が平兵衛の宿に泊まっています。毎年、10,000人前後のお客さんが草津温泉に訪れていたようです。
当時、内湯が許されていたのは湯本三家だけでした。他の宿屋に泊まったお客さんは皆、公共の湯小屋に通っていました。
文化年間、湯小屋は八ヶ所ありました。湯畑の周辺に御座の湯(現在の白旗の湯)、熱の湯(現在は湯もみショーをやっていて入る事はできません)、綿の湯(現在の本多みやげ店の前辺りにありました)、滝の湯(現在、滝が落ちている所に打たせ湯がありました)、かっけの湯(熱の湯と綿の湯の中間辺りにあった足湯)の五つがあって、少し離れた所に、鷲の湯(現在の大坂屋の前)、地蔵の湯(現在とほぼ同じ場所)、金毘羅の滝の湯(現在の泉水通りの突き当たり、金毘羅宮の石段の下)の三つがありました。
金毘羅の湯は近くにあった『桐屋』という料亭が造った湯小屋で、当時、桐屋は芸者衆を多く抱えて、賑わっていたようです。

 草津温泉の年表

 文化5年の草津温泉の図

『草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし』のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


ラベル:草津温泉
posted by 酔雲 at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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