江戸時代、幕府に禁止されていた書物ですが、版元は裏に隠れて盛んに出版していました。それを描く浮世絵師も勿論、禁止されているのを承知で、腕によりを掛けて描いていました。
美人絵を描かせたら天下一品と言われる歌麿は当然のごとく、腕をふるって素晴しい艶本を何冊も残しています。色のない墨摺りの半紙本が多いのですが、寛政11年(1799年)、47歳の時に売り出した「ねがひの糸ぐち」と享和2年(1802)、50歳の時に出した「絵本小町引」は多色摺りで折帖仕立ての豪華なものでした。
寛政9年から文化元年(1804)まで、毎年、艶本を売り出していた歌麿でしたが、その年の5月、「太閤記」に関する浮世絵を描いたという理由でお上に捕まってしまい、3日間、牢屋に入れられて責められ、その後、50日間の手鎖りの刑に処せられます。
当時、太閤記ものが流行っていて、歌麿もそれに便乗したのですが、豊臣秀吉の出世話である「太閤記」には徳川家康が出てきます。江戸時代、徳川幕府の始祖である家康は東照大権現様という神様になっていて、神様の事をとやかく言うのはけしからんと言うわけで、捕まってしまったのです。
「太閤記」は単なる口実に過ぎず、贅沢になった町人たちを取り締まるために、有名になりすぎた歌麿をみせしめとしたのでしょう。みせしめにされたのは歌麿だけではなく、弟子の月麿、勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、そして、十返舎一九も手鎖り50日の刑に処せられました。
その時、歌麿は52歳でした。その刑の後、歌麿は懲りて艶本は描かなくなります。歌麿だけでなく、歌川派、勝川派の浮世絵師も描かなくなり、葛飾北斎とその弟子のような存在の渓斎英泉の活躍が始まります。
刑の後、歌麿はかなり落胆して、2年後には亡くなってしまいました。
喜多川歌麿の履歴
艶本一覧
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ラベル:浮世絵師