2006年05月20日

国定忠治の子分たち

忠治の子分で有名なのは、「赤城の子守唄」に出て来る板割りの浅太郎がいますが、実際の名は浅次郎です。板割りという名は父親がこけら葺きの屋根に敷く板作りの職人だったからと伝えられています。下植木村の浅次郎とも呼ばれ、足が速く、槍も得意だったようです。
一の子分はやはり三ツ木村の文蔵でしょう。彼は忠治の兄貴分でしたが、親分の紋次が倒れた時、親分の座を忠治に譲ります。自分は読み書きもできないし、親分の器ではないと身を引き、忠治の片腕として活躍します。貧しい農家に生まれ、剣術を習う事ができなかったので、自分で工夫して手裏剣術を身に付けました。島村の伊三郎を襲撃した時も、文蔵が手裏剣を投げて、伊三郎がひるんだ隙を忠治が一刀のもとに斬ったようです。
五目牛村の千代松国定村の清五郎曲沢村の富五郎の三人は忠治の幼馴染みで、ガキの頃から一緒に悪さをしていた仲間です。忠治が百々一家の親分になった後、子分になります。
山王道村の民五郎は居合い抜きの名人で、八寸村の才市は鉄砲撃ちが得意だったようです。二人とも、伊三郎襲撃に加わっています。
桐生町のお辰は女渡世人で忠治の噂を聞いて草鞋を脱ぎ、そのまま、子分となりました。桐生町の車屋の娘だったと伝えられています。お辰と同じように、流れて来て忠治の子分になった者に下総無宿の神崎の友五郎と甲州無宿の甲斐の新十郎がいます。二人とも腕が立ったようです。
変わった所では学者崩れの太田宿の日新がいます。師の生田万が越後の柏崎の代官陣屋を襲撃した後、逃げて来て、身を隠すために忠治の子分になったようです。
その他に、保泉村の久次郎茂呂村の孫蔵田部井村の又八富塚村の角次郎上中村の清蔵新川の秀吉境川の安五郎鹿村の安次郎といった子分がいます。
忠治は27歳の時に、百々一家から国定一家に名前を変えますが、親分が若いので、子分たちも皆、若く、個性ある面々が揃っていたようです。

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬

侠客国定忠次一代記の創作ノート
ラベル:侠客
posted by 酔雲 at 09:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
は・・はじめまして・・!
コメント初めてできんしょーします・・っ!
Posted by ☆aine☆ at 2006年05月20日 21:59
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック