2006年05月14日

日光の円蔵

国定一家で軍師と呼ばれた日光の円蔵は野州(栃木県)都賀郡の落合村に生まれました。幼い頃より寺に入れられますが、17歳の頃、寺を飛び出して、野州無宿の日光の円蔵を名乗って旅に出ます。寺にいた時の名前が、晃円といい、晃を分解して日光、円に蔵をくっつけて日光の円蔵としたようです。
親分子分の関係を持たずに、旅から旅への渡世を送っていましたが、前橋の福田屋栄次郎のもとに客人として世話になっていた時、国定忠治と出会います。円蔵29歳、忠治21歳でした。
円蔵は忠治に何かを感じたのでしょう。百々一家の親分になったばかりの忠治を助ける気になって、百々一家の客人となり、以後、死ぬまで、忠治の片腕として活躍します。
円蔵が生まれた落合村はかなり山奥の村で、入れられた寺というのは山伏の寺だったのかもしれません。そこで厳しい修行を積み、武芸や学問も学んだようです。兵法なども学んでいたのでしょう。それが役に立ったというわけです。
忠治がもし、円蔵に出会わなかったら、伊三郎の暗殺に失敗し、逆に殺されていたかもしれません。国定一家を張る前に、百々一家は潰れていたでしょう。21歳の忠治が立派な親分になれたのも、側に円蔵が控えていたからです。伊三郎を殺して旅に出た忠治の留守をしっかりと守っていたのも円蔵です。円蔵がいなかったら、留守の間に潰されていたに違いありません。
天保13年(1842)11月、円蔵は関東取締出役に捕らえられ、翌年、牢屋の中で亡くなります。忠治の死より8年前の事でした。

日光の円蔵の略歴

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬


国定忠治とその外伝130話  御蔵堀情話
タグ:侠客
posted by 酔雲 at 11:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして私は日光の円蔵の孫のそのまた孫にあたるものです。出生については栃木というのがほとんどですが、子供のとき下野新聞に福島のいわき、小名浜藩の藩医の息子との情報が載っていました。今市の寺には2箇所墓があります。川村右膳正則というのが本名らしいです。いわきには川村という姓がたくさんありました。私の祖父の生家にはいまだに彼の刀があるそうです。群馬の邑楽郡です。霊能のある人には先祖は武家の出ですねと言われます。私はこの武士出身説を信じます。ありがとうございます。
Posted by 5代目円蔵 at 2015年06月23日 02:49
5代目円蔵様、新しい情報をありがとうございます。

日光の円蔵に子孫の方がいらっしゃったなんて知りませんでした。

円蔵については謎の部分がかなりあります。それを解明するのは難しいですが、いつの日か、解明される事を祈っています。
Posted by 酔雲 at 2015年06月23日 07:19
予想しますと彼の女性と子供が群馬に残されたようです。もう200年の月日が経っていますが、私も母も親が遅くなって持った子ですので代があまり変わっていません。ある霊能者は私を見ると刀が見えると言います。過去の話はもう解明されることはないと思いますが、彼がいたから今の私がいるのだと感謝の気持ちでいます。忠次の墓もいずれ訪れたいと思っています。
Posted by 5代目円蔵 at 2015年07月06日 19:28
5代目円蔵様、コメントありがとうございます。
私が忠次の墓を初めて訪れたのはかなり前の事ですが、鬱蒼とした森の中にありました。その後、二十年位経ってから行ったら、森はなくなっていて、何となく寂しい思いをしました。昔は遠くからお墓参りに来る人が大勢いたようですが、最近はほとんどいないようてす。
忠次の墓と共に大戸にある処刑場跡にも行ってみてください。
Posted by 酔雲 at 2015年07月07日 07:42
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