親分子分の関係を持たずに、旅から旅への渡世を送っていましたが、前橋の福田屋栄次郎のもとに客人として世話になっていた時、国定忠治と出会います。円蔵29歳、忠治21歳でした。
円蔵は忠治に何かを感じたのでしょう。百々一家の親分になったばかりの忠治を助ける気になって、百々一家の客人となり、以後、死ぬまで、忠治の片腕として活躍します。
円蔵が生まれた落合村はかなり山奥の村で、入れられた寺というのは山伏の寺だったのかもしれません。そこで厳しい修行を積み、武芸や学問も学んだようです。兵法なども学んでいたのでしょう。それが役に立ったというわけです。
忠治がもし、円蔵に出会わなかったら、伊三郎の暗殺に失敗し、逆に殺されていたかもしれません。国定一家を張る前に、百々一家は潰れていたでしょう。21歳の忠治が立派な親分になれたのも、側に円蔵が控えていたからです。伊三郎を殺して旅に出た忠治の留守をしっかりと守っていたのも円蔵です。円蔵がいなかったら、留守の間に潰されていたに違いありません。
天保13年(1842)11月、円蔵は関東取締出役に捕らえられ、翌年、牢屋の中で亡くなります。忠治の死より8年前の事でした。
日光の円蔵の略歴
ラベル:侠客
日光の円蔵に子孫の方がいらっしゃったなんて知りませんでした。
円蔵については謎の部分がかなりあります。それを解明するのは難しいですが、いつの日か、解明される事を祈っています。
私が忠次の墓を初めて訪れたのはかなり前の事ですが、鬱蒼とした森の中にありました。その後、二十年位経ってから行ったら、森はなくなっていて、何となく寂しい思いをしました。昔は遠くからお墓参りに来る人が大勢いたようですが、最近はほとんどいないようてす。
忠次の墓と共に大戸にある処刑場跡にも行ってみてください。
私に刀が見えると別の人にも言われました。
どうも円蔵と私は密接に関わっているようです。
不思議な話なんですけれど。
母の話などを思い起こしてみると
武士の家計であるので円蔵は武士の出のようです
腕はたったといいますからそうなんでしょう。
小名浜藩の藩医の息子だったと聞きます。
後に蘭学を学び、歯医者をしたという話も聞きました。
私があの世に行ってから円蔵との関係もわかることだと思います。
円蔵は忠次の軍師だったのですから、幼い頃より教養を身に付けた武士だったのかもしれません。
最近は国定忠次も日光の円蔵も忘れ去られたような存在となってしまい、寂しい思いがしています。
私の投稿を読み返すとやたらと霊能者がどうのと出てきます。すみません。私がどうしても話を持って行きたかったのでしょう。最近時代劇の映画を好んでみています。忠治の映画はなかなかお目にかかれないのです。まあ、座頭市はよくみますけれど。お話の世界になるほど当時の侠客は格好良かったのだろうと思います。そして人情は今以上に大事だったんだと思います。
毎日、暑いですが、何とか元気にやっています。
私は今、琉球王国を舞台にした「尚巴志伝」という小説を書いていますが、なかなか完成しません。
長い小説ですが、よろしかったらお読みください。