船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。
当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていました。江戸からの船が平塚まで上って来て、様々な物資を運んでいたのです。河岸には船問屋の土蔵がいくつも並び、大勢の人足たちが働いていました。当然のごとく博奕が盛んで、稼ぎになる縄張りでした。
伊三郎は利根川筋の小さな一家の親分たちを吸収して勢力を広げて行きます。30歳の頃、八州様と呼ばれた関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の道案内になって十手を持つようになります。
道案内というのは江戸でいう岡っ引きみたいな者です。関東の地は支配者がバラバラで、細切れ状態になっていました。悪い事をしても支配者の違う土地に逃げ込めば、捕まえる事はできません。そこで、幕府が考えたのが関東取締出役です。彼らは誰の土地だろうが入って行って悪人を捕まえる権限を持っていました。しかし、江戸に住んでいる八州様には土地勘がなく、道案内を必要としたのです。
本来なら、道案内は各地の名主が勤めるべきなのですが、無法者を捕らえるには、その道の者の方が具合がいいので、博奕打ちの親分たちが勤めるようになりました。お上のお勤めをするかわりに、お目こぼしをしてもらうというわけです。
博奕打ちでありながら、お上の手下を勤めている者を二足の草鞋と呼びました。国定忠治はそんな筋の通らない事はないと言って嫌いましたが、二足の草鞋を履いていた親分はかなりいました。忠治を助けた玉村の佐重郎も前橋の福田屋栄次郎も二足の草鞋でした。
勢力を広げて行った伊三郎ですが、境宿を縄張りとする百々一家を配下に加える事はできませんでした。絹市の開かれる境宿は相当な稼ぎになる縄張りです。伊三郎は何としても、手に入れようと企みます。そして、百々一家の跡目を継いだ国定忠治と対立するわけです。
天保5年(1834)7月2日、日の暮れた後、世良田の賭場へ向かう伊三郎の一行を忠治たちが襲撃しました。伊三郎44歳、忠治25歳でした。
伊三郎は忠治を見くびっていたのでしょう。もし、自分が忠治の立場だったら、同じ事をしていただろうに、そんな事まで考えず、忠治にそんな度胸はないと軽く見ていたようです。
伊三郎の死後、島村一家は分裂してしまい、忠治の勢力は広がって行きます。
島村の伊三郎の略歴


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