2006年05月01日

国定忠治

石川五右衛門と同じように見せしめの処刑にあったのが国定忠治です。
国定忠治とは国定村の忠次郎の略で、本名は長岡忠次郎といいます。
先祖は新田義貞の家臣だったらしく、代々長岡姓を持っていました。身分は農民だったので、堂々と姓を名乗る事はできませんでしたが、国定村の名主も務めた事もある裕福な農民だったようです。
10歳の頃、父親を亡くして、村でも評判のガキ大将に育ち、博奕に熱中します。
当時、博奕はお上に禁じられていましたが、上州の村々では庶民の娯楽として日常茶飯事に行なわれていました。村人たちが集まれば、決まって博奕が始まります。道端やお寺や神社の境内で大っぴらに行なわれていたようです。
養蚕が盛んな上州では農民たちもお金を持つようになり、益々、盛んになって行きます。忠治が博奕を覚えるのも当然の事と言えるでしょう。
農家の仕事は母親が小作人たちを使って切り盛りし、忠治は剣術道場に通いながら遊んでいたようです。そんな忠治の転機は、誤って無宿者を殺してしまった事です。
名主たちの計らいで身を隠した忠治は武州で大前田栄五郎と出会い、匿われます。栄五郎の男気に惚れた忠治は博奕渡世に生きる決心をして、栄五郎の紹介で境宿の隣村の百々(どうどう)村で一家を張っている紋次の子分になります。
紋次親分は境宿を仕切っていましたが、絹の市場で栄えている境宿を狙っていたのが島村の伊三郎です。伊三郎は様々な手を使って、百々一家を潰そうとたくらみ、紋次は抵抗しますが、中風で倒れてしまいます。
紋次の跡を継いで、百々一家の親分になったのが、忠治です。その時、忠治は21歳でした。
その後、伊三郎を殺して勢力を広げ、お上に睨まれる存在となります。子分が捕まり、腹を立てた忠治は大戸の関所を堂々と破ってしまいます。
当時の関所には必ず、抜け道があって、そこを通れば済んだのですが、その時の怒りから、関所をまかり通ってしまったのです。そのお陰で、忠治は全国に指名手配され、逃亡の日々を送らなければならなくなります。
41歳の夏、故郷に帰って来た所を捕まり、江戸送りの後、12月21日、大戸の関所ではりつけ刑に処せられます。
幕府は御威光を見せ付けるために、忠治を大衆の見守る中で殺しましたが、時はすでに遅く、忠治の処刑から18年後には幕府は崩壊します。

侠客国定忠次一代記 創作ノート

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬


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ラベル:侠客
posted by 酔雲 at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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