浄土真宗が今のように広まったのは蓮如のお陰と言ってもいいでしょう。
蓮如が生まれた時、京都の大谷にあった本願寺は寂れていました。蓮如は43歳になるまで部屋住みの身で、ただひたすら親鸞聖人の教えを学んでいました。43歳で本願寺第八代法主になると、教えのために戦い始めます。比叡山を敵にしても決して、自分の考えを曲げませんでした。挙句に、本願寺を破壊されて、放浪の身となってしまいます。近江の門徒たちに助けられて、各地を転々とした後、北陸に進出します。
蓮如は誰にでもわかるように簡単な文章で教えを説きました。その文章は御文と呼ばれ、各道場に配られて門徒たちを増やすのに役立ちました。蓮如は下層階級の者たちから教えを広めて行きました。今まで宗教とはあまり縁のなかった人々が次々に門徒になって行ったのです。
蓮如の教えは、人々が阿弥陀如来様に救いを求めるのではなく、阿弥陀如来様が人々を救うという本願をかけたので、すでに、すべての人々は救われているというものです。その事に気づき、感謝の気持ちを込めて南無阿弥陀仏と唱えなさいと教えます。そして、阿弥陀如来様の前では、すべての人は平等であると説きます。
門徒が増えると道場が各地にでき、今まで、支配者が違っていたため、横のつながりのなかった村と村が門徒同士という事でつながり、互いの情報を交換し合うようになります。つながりを持った門徒たちは団結して、支配者たちに反抗します。支配者たちも背に腹は変えられないと本願寺の門徒になります。
他宗の寺も寺領の農民たちが本願寺門徒になってしまい、改宗を余儀なくされます。こうして、本願寺門徒は見る見る増えて行きました。
蓮如の教えが、身分制度で成り立っている武士の社会と対立しないわけには行きません。蓮如が争い事はするなと言っても、動き出した大きな力を止める事はできません。そして、一揆が始まるのです。
本願寺の一揆を一向一揆と呼んだのは京都の人々です。念仏を唱える宗派は、浄土真宗も、一遍の開いた時宗も、一向が開いた一向衆も皆、同じに思えたのでしょう。蓮如自身は一向宗と呼ばれるのを嫌って、浄土真宗だと何度も言っていますが、効き目はなかったようです。
本願寺蓮如の略歴






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