生まれは中院家という身分の高いお公家さんで、幼い頃より宮廷に出入りし、お家芸の和歌を嗜んでいました。
二十歳の頃、連歌師の心敬の弟子になり、何年かして、侘び茶の村田珠光の弟子になります。器用で頭もいいのか、連歌も茶の湯も一流と言われる程の腕になります。
25歳の時、応仁の乱が起こって、池田氏に誘われて摂津の国の池田庄に難を避けます。その頃、夢庵という庵に住み、夢庵と号します。
豊富な知識と連歌や茶の湯の腕で、各地の大名に招待されてはフラフラと出掛けたりしていましたが、30歳を過ぎて、もう一度、連歌の修行をしようと、種玉庵宗祇に弟子入りします。
当時、宗祇は連歌の第一人者でしたが、まだまだ、自分は修行の身と言って、古典に没頭していました。夢庵は何とか粘って、宗祇の一番弟子になります。二番弟子になったのは柴屋軒宗長です。
三人は共に旅をしながら、連歌の名作を幾つも残します。
師の宗祇が亡くなった後は堺に住み、堺の豪商たちに連歌や茶の湯の指導をしたり、気の向くままに旅に出たりしていました。
晩年に、牡丹花、弄花老人と号します。花を愛し、酒も愛したようです。肖柏という名は一休禅師に貰ったといわれています。
一休禅師と同じように、85年の人生を何のこだわりもなく、飄々と過ごしたようです。
夢庵(牡丹花)肖柏の略歴





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