京都で応仁の乱が始まった頃より、関東でも公方と管領の争いが始まり、各地の武将たちもそれに巻き込まれて争いが絶えませんでした。やがて、管領の上杉氏も分裂して争いを繰り返します。その頃、関東の地を一つにまとめようと活躍したのが、上杉家の執事を勤めていた太田道灌です。しかし、道灌は騙し討ちにあって殺されてしまいます。
道灌の死後、関東の地はバラバラになってしまい、益々、ひどい状況になって行きます。そこに登場するのが、伊豆の国を乗っ取って、関東に進出してきた北条氏です。
伊勢守が38歳の9月、河越で北条氏と上杉氏の合戦がありました。伊勢守も上杉方として出陣します。その合戦は河越城を守る北条氏が籠城したため長引きます。何万もの兵に囲まれた河越城は誰が見ても落城は時間の問題と思われました。ところが、翌年の4月、北条方の夜襲によって、上杉方は敗れてしまいます。
河越で敗れた上杉氏は翌年の夏には西から攻めて来た武田氏にも敗れます。
伊勢守が45歳の時、上杉氏の本拠地だった平井城が北条氏に攻められて落城します。管領の上杉氏は越後に逃げ、長尾景虎に上杉姓と管領職を譲ります。
管領のいなくなった上野は攻め取り放題の国となって、南から北条氏康、西から武田信玄が攻め寄せて来ます。
平井城を落とした北条氏は三年後には厩橋城を攻め取り、さらに沼田の倉内城も落とします。この時点で、上野の国は利根川を挟んで東側は北条の勢力範囲となってしまいます。伊勢守48歳の時で、利根川以東にあった上泉城も北条方とならざるを得ませんでした。
利根川以西は箕輪城の長野氏を中心に西から攻めて来る武田氏に抵抗していました。
利根川以東の北条支配は五年間続きますが、永禄3年(1560)、上杉謙信(長尾景虎)が大軍を率いて北から攻めて来ます。管領職を継いだ謙信の勢いは物凄く、北条勢は上野の国から一掃されてしまいます。この時、伊勢守は家族を連れて小田原に移ったのだと思います。そして、三年後、伊勢守は剣客となって西へ旅立つのです。






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