2009年08月02日

織田信長の狂気

時は今‥‥石川五右衛門伝 5.地獄絵」より信長の狂気


 八月十七日、見世物(みせもの)好きな信長がまた、見世物を催した。一月前の華麗な見世物とは打って変わって、今回は残酷極まりない下劣(げれつ)な見世物だった。

 信長に逆らった高野山(こうやさん)に対して見せしめのため、旅の聖(ひじり)たちを片っ端から捕まえて、安土に連れて来た。その聖たちを琵琶湖畔で処刑するというのだった。信長自身は出て来なかったが、信長の小姓(こしょう)たちによって、百人余りの聖の首が次々に飛ばされ、琵琶湖の水は真っ赤に染まった。

 まだ幼い顔をした小姓たちは、悲鳴を上げながら助けを求めている聖たちを捕まえては無表情に斬り殺して行った。その光景はなんとも恐ろしいものだった。彼らは信長に命じられれば、どんな事でもためらいなくやってしまうだろう。

 大勢の見物人は、ひどい、むごすぎると言いながらも、興味深そうな顔をして残酷な見世物を楽しんでいた。若い娘たちの中には、小姓の名を叫び、キャーキャー騒いでいる者もいる。

 夢遊は馬鹿な娘たちを見ながら、顔を歪めると天主を見上げた。信長があそこから、この光景を眺め、不気味に笑っている姿を想像して、背筋がゾッと冷たくなるのを感じた。

 信長は狂っているのかもしれないと夢遊は思い始めていた。

 信長の残虐性が現れ出したのは十年前の比叡山(ひえいざん)の焼き打ちの時だった。あの時は比叡山が朝倉氏と浅井(あざい)氏と結んで、信長に敵対したため、戦なのだから仕方がないと思った。また、夢遊自身もやりたい放題の比叡山には反感を持っていて、いい気味だと思っていた。

 朝倉氏を滅ぼした後の落ち武者狩りも凄(すさ)まじかった。捕まえた落ち武者を片っ端から斬り殺して死体の山を次々に築いた。その時も、夢遊は戦だから仕方がないと思った。

 伊勢長島の本願寺一揆の二万人にも及ぶ大量殺戮(さつりく)、越前の本願寺一揆の三万人余りの殺戮も、ひどすぎるとは思ったが、信長を苦しめ続けたのだから、仕方がないのかもしれないと思った。

 しかし、一昨年(おととし)の荒木村重一族の殺戮は夢遊も残酷すぎると思った。村重の妻を含めた女子供たち三十六人を京都引き廻しのうえ六条河原で斬り殺し、有力家臣たちの妻や娘など女ばかり百二十人を尼崎で磔(はりつけ)にして撃ち殺した。さらに、その他の家臣や女子供たち五百人余りを四軒の家に押し込めて焼き殺してしまった。信長は狂ってしまったのかと思える程、残酷な仕打ちだった。

 その後、夢遊はお茶会に呼ばれて信長と会った。直接、話をしてみると、別に狂っているような素振りはなく、まともだった。怒りが爆発すると、本人も気が付かない程に残酷になってしまうのだろうと思った。

 去年は残酷な面を見せる事なく、始終、機嫌がいいようだった。暇さえあれば、鷹狩りや相撲興行をやっていた。ところが、今年になって、また、残酷な面が顔を出して来た。

 四月の中頃、信長が竹生(ちくぶ)島に参詣した日、留守中に遊んでいたと言って、泣き叫びながら謝る侍女(じじょ)たちを次々に斬り殺した。そして、今回の高野聖の処刑だった。ハ見寺が信長自身を祀った寺だと知った時から、夢遊は何かいやな予感がしていた。信長の心が少しづつ、狂気に蝕まれつつあるような気がしていた。


織田信長事典コンパクト版  織田信長総合事典  考証織田信長事典  図説織田信長  完訳フロイス日本史 3 織田信長篇3  


ラベル:武将 時は今‥‥
posted by 酔雲 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説の中の衝撃的な場面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。