本願寺を破門になった蓮崇は風眼坊(後の風摩小太郎)と共に吉崎を去り、近江の飯道山に来ます。武術道場として栄えていた飯道山を見た蓮崇は自分も武術を習おうと思い、風眼坊に弟子にしてほしいと頼みます。風眼坊は弟子にしてもいいが、山の中を百日間、歩き通す百日行ができれば弟子にしてやると言います。蓮崇は決心を固めて百日行を始めますが、それは思っていた以上に辛い修行でした。たまたま一緒にいた早雲も自分の悩みを解決するために蓮崇に付き合って百日行を始めます。
一ケ月が過ぎた。
山々が色づき始めた。
蓮崇は歩き通していた。
体付きや顔付きはすっかり変わって来ていた。髭や髪が伸びて来たせいもあるが、目がギラギラと輝き、一種の気魄(きはく)というものが感じられた。
風眼坊は、もしかしたら、蓮崇は百日間、歩き通すかも知れないと思った。なぜか、早雲の方がおかしくなって来ていた。ほとんど口も利かなくなり、苦しそうに歩いていた。
早雲も風眼坊も蓮崇よりも年上だった。風眼坊の方は一年半前までは大峯にいたので、まだ体はできているが、早雲の方は山歩きに慣れているとはいえない。蓮崇程ではないにしろ、かなり、きついはずだった。
早雲が一番先を歩き、蓮崇が歩き、風眼坊は一番最後を散歩している気分で歩いていた。
今が一番、きつい時だろう。今を乗り越え、半分の五十日を乗り越えれば、何とか歩き通す事ができるだろうと風眼坊は思った。
三十三日目だった。
怪石奇岩の並ぶ、竜王山へと続く道を歩いている時、突然、前を歩く蓮崇が崩れるようにして倒れ込んだ。
風眼坊は駈け寄った。
蓮崇は苦しい息をしながら目を剥き、風眼坊の方を見ながら手を高く差し延べ、何かをつかもうとしていた。やがて、その手は力なく落ちると蓮崇は目をつむり、『南無阿弥陀仏』と呟くと、ガクッとなった。
風眼坊は慌てて、前を行く早雲を呼んだ。
蓮崇は意識を失い、夢を見ていた。
蓮崇はお花畑の中に立っていた。
遠くの方から何とも言えない妙な調べが流れていた。
空には紫色した雲がたなびいている。
浄土だな、と思った。
やっと、浄土に来られた。辛い山歩きも、もう終わったんだな、と思った。
お花畑の向こうから女の子が蓮崇の方に走って来た。
誰だろう。
何となく、見た事あるような気がした。近づいて来るにしたがって、その女の子が蓮崇の娘だと分かった。流行り病に罹って七歳で亡くなった、あや、という娘だった。
あやは蓮崇に飛び付いて来た。そして、淋しかったと言いながら泣き出した。
蓮崇は娘と手をつないで、お花畑を歩いていた。
急に娘が蓮崇の手を引っ張った。蓮崇は引っ張られるままに娘に付いて行った。
娘に引かれて行った所には綺麗な大きな湖があった。湖の中央に円錐形の形のいい山が聳(そび)えていた。
娘は蓮崇を水際まで連れて行った。
水際に女がしゃがみ込んで何かを拾っていた。
女は蓮崇に気づいて振り向き、ゆっくりと立ち上がった。
その女は蓮崇の母親だった。しかし、蓮崇がまだ子供だった頃のままで、蓮崇よりも年がずっと若かった。
女は蓮崇を見て笑った。
蓮崇も笑ったが、変な気分だった。自分の母親が自分よりも若いという事がおかしかった。
母親は蓮崇の名を呼んだ。懐かしい声だった。蓮崇は子供に戻ったかのように母親に抱き着いて行った。不思議な事に蓮崇は母親に抱かれた瞬間、子供に変わった。
蓮崇は母親に聞きたい事が一杯あったが、母親に会った瞬間、そのすべての事が分かったような気がした。
子供に返った蓮崇は母親に舟に乗せられ、湖に漕ぎ出した。
蓮崇は、母親が湖の中央に聳える山に連れて行ってくれるものと思っていた。あの山にはきっと阿弥陀如来様がいらっしゃるんだと信じていた。きっと親鸞聖人(しんらんしょうにん)様も本泉寺の如乗(にょじょう)様もいらっしゃると思った。
湖の中程まで来た時、母親は舟を止めた。
「母ちゃん、どうしたの」と蓮崇は聞いた。
「左衛門太郎や、下をごらん」と母親は言った。
蓮崇は湖の中を覗き込んだ。
綺麗な水の下に何かが見えた。大勢の人々が苦しんでいた。
「地獄なんだね」と蓮崇は母親に言った。
「よく見るのよ」
地獄なんか見たくはない、と思ったが、蓮崇は母親に言われた通り、もう一度、湖の中を見た。
人々は血を流しなから苦しんでいた。地獄の鬼どもはひどい事をするな、と思ったが、鬼の姿はなかった。人々を苦しめていたのは同じ人間だった。何という悪い事をしてるんだと蓮崇は思いながら目をそむけた。
「駄目よ。よく見なさい」と母親は厳しい口調で言った。
蓮崇には母親がどうして怒るのか、分からなかった。
蓮崇はもう一度、湖の中を見た。
『南無阿弥陀仏』と書かれた旗が見えた。やられているのは本願寺の門徒たちだった。女や子供も逃げ惑っていた。門徒たちを苦しめていたのは守護の兵だった。兵たちは面白がって無抵抗の門徒たちを攻めていた。
「やめろ!」と蓮崇は湖に向かって叫んだ。
「左衛門太郎や、お前は、あの人たちを見捨てるつもりなの」と母親は言った。
「だって、俺にはどうする事もできないよ」
「左衛門太郎や、あのお山には親鸞聖人様や如乗様もいらっしゃるのよ。今のお前が、その方たちの前に行けるの。もう少しすれば蓮如上人様もいらっしゃるでしょう。お前は蓮如上人様と会って何というつもりだい」
「母ちゃん‥‥‥俺、まだ、やらなきゃならない事があるんだ。まだ、あのお山には行けないよ」
「分かってくれたんだね」
「母ちゃん、どうすればいいの」
「飛び込むのよ」
「この中に?」
「そう」
蓮崇はじっと母親の顔を見つめた。
母親は頷いた。
蓮崇は思い切って湖の中に飛び込んだ。
大きな渦に巻き込まれて、どんどん下に落ちて行くようだった。
蓮崇は目を明けた。
風眼坊と早雲の顔があった。
「おい、大丈夫か」と風眼坊の声が聞こえて来た。
「蓮崇!」と早雲は怒鳴っていた。
「大丈夫です」と蓮崇は言って体を起こした。
「よかった‥‥‥死んじまったんかと思ったわ。脅かすな」
「死んだ‥‥‥死んだのかもしれない」
「何を言っておるんじゃ。脅かすなよ」と早雲は言った。
「浄土を見たんじゃ‥‥‥」と蓮崇は言った。
「浄土を見た?」と風眼坊は聞いた。
「はい‥‥‥わしは生き返ったのかもしれん‥‥‥」
「蓮崇、大丈夫か‥‥‥もう、やめた方がいいぞ。もう、充分やったろう、もう、気が済んだはずじゃ」と早雲は言った。
「いえ、大丈夫です。わしは本当に生き返ったんです。生まれ変わったんです」
蓮崇は立ち上がった。
体が軽くなったような気がした。
蓮崇は杖を取り直すと歩き始めた。






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