2009年02月05日

蓮如上人の御文

陰の流れ 第三部・本願寺蓮如 1.蓮如1」より蓮如上人の御文


 蓮誓は何を写していたのだろう、と風眼坊は文机の上を覗いてみた。

 手紙のようだが、どうも手紙ではないらしい。教えのような事が、誰にでも読めるように片仮名まじりで書いてあった。

「それ、当流親鸞聖人の勧めましますところの一義の心というは、まず他力の信心をもて肝要とせられたり‥‥‥」

 親鸞聖人とは一体、誰なのか、風眼坊には分からなかったが、最後まで読んでみる事にした。最後まで読んでみて、なぜか、風眼坊の心を打つ物があった。実に分かり易く、本願寺の教えが書いてあった。これなら、何の教養のない者たちでも、聞いていれば、すぐ分かる単純な教えだった。

 風眼坊も勿論、阿弥陀如来は知っていた。熊野の本尊は阿弥陀如来だし、飯道山の本尊も阿弥陀如来だった。しかし、阿弥陀如来というのが、どんな仏様なのか、考えた事もなかった。他の仏様と同じように人々を救ってくれる仏様で、『南無阿弥陀仏』と唱えれば極楽に往生ができるというので、信者たちは何かと言うと『南無阿弥陀仏』と唱えているのだろうと思っていた。浄土宗やら、時宗やら、浄土真宗やら色々とあるが、みんな同じで、死んだ後の事など誰も分からないのをいい事に、坊主どもが、いい加減な事を言って、人々を惑わしているのだろうと思っていた。しかし、風眼坊が今、読んだ文には、阿弥陀如来は、すでに、すべての者を救っていると書いてあった。

 本願とは、人々が救ってくれと願うのではなくて、阿弥陀如来の方が、すべての人々を救うという願いを掛けられたのだと言う。すべての人々は、どんな悪人であろうとも、すでに阿弥陀如来に救われているのだと言う。そして、その事に気づいたら、感謝の気持ちをお礼の意味を込めて『南無阿弥陀仏』と唱えるのだと言う。助けてくれという気持ちで『南無阿弥陀仏』と唱えるのではなく、助けていただいて有り難うございますという気持ちで『南無阿弥陀仏』と唱えるのだと言う。

 風眼坊は繰り返し繰り返し、その文を読んだ。

 すべての人々は、すでに救われている‥‥‥

 こんな教えがあるのか‥‥‥

 凄い教えだと思った。

 風眼坊は天台宗の山伏だが、天台宗の教えは難しくて複雑で、何が何だかさっぱり分からなかった。やたらと難しくしている節さえある。ところが、この本願寺の教えは何と簡単で分かり易いのだろう。こんなに分かり易かったら門徒が増えるわけだった。

 蓮如は門徒を増やして、どうするつもりなのだろう‥‥‥

 風眼坊は、蓮如のような純粋な宗教者というのを知らなかった。宗教者の振りをしているが、一皮剥けば欲の固まりのような坊主しか、今まで会った事はなかった。風眼坊自身、今まで大峯の山上にいて、信者たちに偉そうな事を言っていたが、宗教心から言っていたわけではない。早い話が金儲けに過ぎなかった。信者を増やせば本山は儲かる。その手助けをしていたようなものだった。蓮如もやはり、金儲けのために門徒を増やしているのだろうと風眼坊は思った。

 しかし、すべての者は阿弥陀如来によって、すでに救われている、そして、感謝の気持ちをこめて『南無阿弥陀仏』と唱えるという教えは、風眼坊にも頷けるものがあった。

 風眼坊は長い間、山伏として自然の中で生きて来た。自然の中にいると、目に見えない大きな力というものを感じる。それは、人間の力ではどうする事もできず、また、言葉で説明する事もできない大きな力だった。そして、その大きな力に包まれて生きているという事に、自然と感謝の気持ちというのが涌いて来るものだった。その大きな力というのが、本願寺では阿弥陀如来なのだろうと思った。


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ラベル:陰の流れ 本願寺
posted by 酔雲 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説の中の名場面 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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