太郎と無為斎は木剣を構えた。
太郎は中段、無為斎は下段だった。
無為斎は下段に構えるといっても、構える風ではなく、ただ、木剣を持っているだけという感じだった。隙だらけだった。
太郎は中段に構えたまま、無為斎の目を見つめた。
無為斎の目はぼんやりとしていた。何を考えているのかまったくわからない。やる気がないというか、ただ、ぼんやりと立っているだけだった。
太郎は木剣を上段に上げた。
無為斎の変化はなかった。
打とうと思えば、どこでも打てた。
ところが、なぜか、打つ事ができなかった。
太郎は少しづつ間合いを詰め、上段から、八相の構えに移した。
無為斎はまったく、変化しない。
どうした事か、太郎には打ち込む事ができなかった。
前に、飯道山で高林坊と初めて立ち会った時と同じだった。何もしないでいる無為斎の存在が、やたらと大きく感じられる。しかし、あの時の高林坊は太郎を押しつぶすかのようだったが、無為斎の場合は太郎を静かに包みこんで行くようだった。
不思議な力に包み込まれ、太郎は身動きができなかった。
無為斎の木剣が少しづつ上がって、中段の構えとなった。
無為斎の木剣の剣先が太郎の胸を刺すかのように向けられた。
太郎は八相に構えたまま動けなかった。
無為斎は静かに間合を詰めながら、少しづつ剣を上げていった。
やがて、剣は天を刺すかのように、無為斎の頭上に真っすぐに立った。
そして、その剣は太郎の左腕めがけて落ちて来た。それは、ゆっくりと落ちて来たように思えたが素早かった。
太郎に避ける間がなかった。
無為斎の剣は太郎の左腕をかすりながら落ちて行った。
無為斎は元の下段に戻ると剣を引いた。
太郎も剣を引き、無為斎に頭を下げた。
「どうじゃな、今の剣が神道流の極意、天の太刀じゃ」と無為斎は言った。
「天の太刀?」
「うむ、鹿島に古くから伝わる鹿島の太刀の一つじゃ。剣の極意なんていうものは、昔から変わりはせんものじゃ」
「天の太刀‥‥‥初めて見せていただきました」と川島先生が厳粛な面持ちで言った。
「愛洲殿、そなたは確かに強い」と無為斎が言った。「強いが、今のそなたには心に迷いがある。心に曇りがあると剣はにぶる。どんな達人でも心が曇っていれば、それは命取りになる。人は生きている。生きている限り、色々な迷いが生じてくる。その迷いを一つ一つ乗り越えなければならん。剣の道で生きていく限り、常に、心を磨いていなければならんのじゃ」







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