天狗の面をかぶった太郎は鐘の上に腰掛け、村人が集まって来るのを待った。
何だ、何だと村人たちはぞくぞくと集まって来た。かなりの人数が集まると太郎は鐘の上に立ち上がり、「わしは愛宕山の天狗、太郎坊じゃ」と迫力のある声で言った。
「このお山の飯道権現様に呼ばれて、やって来た。飯道権現様が言うには、雨が降らんのはお山に鐘がないからじゃ、ぜひとも、お山に鐘を上げ、鐘を鳴らして、お山に住む魑魅魍魎(ちみもうりょう)を退治してくれとの事じゃ。この鐘をお山に上げ、一撞きすれば雨は必ず降る」
太郎はそう言うと太刀を抜き、鐘の上で飛び上がりながら振り回し、太刀を納めると天を見上げ、印を結び、真言を唱えた。最後にヤァー!と気合を掛けると空中で回転しながら鐘から飛び降り、また、鐘の上に飛び乗った。
「皆の衆、天狗様のお告げじゃ。この鐘を運べば雨は必ず降るぞ」と望月が村人たちを見渡しながら大声で言った。
天狗様じゃ、天狗様じゃと村人たちは綱に飛び付いて行った。
「よーし、運べ!」と太郎が叫ぶと、鐘は嘘のように簡単に動き始めた。
太郎は鐘の上に乗ったまま、錫杖を振り回し、掛声を掛けた。望月と芥川も鐘の両脇で掛声を掛け、三雲と服部は法螺貝を吹き鳴らした。
参道を引きずられて行く鐘を見て、村人たちがぞくぞくと集まって来た。男たちは綱を引き、女たちは掛声を掛けた。
女たちの中に楓の姿もあった。楓も鐘の上で跳ねている太郎を見上げながら、掛声を掛けていた。
二の鳥居をくぐると、そこから先は女人禁制になっているので、女たちはそこから鐘が山に登って行くのを見送った。
急な登り坂になっても鐘は面白いように登って行った。鐘は右に揺れたり、左に揺れたり、飛び上がったりしていたが、太郎は落ちる事もなく、その鐘の上を跳びはねながら掛声を掛けていた。まさに、それは天狗の舞いだった。
村人たちの掛声は山の中に響き渡った。山の中からも一体、何の騒ぎだと山伏たちがぞくぞくと下りて来た。中には村人たちと一緒になって騒ぐ山伏もいた。
鐘は無事に、百人以上の村人たちの力で山の上まで運ばれ、できたばかりの鐘撞き堂に納まった。
鐘撞き堂の回りは人で埋まっていた。みんな、「やった、やった」と騒いでいる。
太郎は鐘撞き堂の上に立ち、空を見上げた。雨が降りそうな気配はまったくなかった。日がかんかんと照っていた。
太郎は鐘の真下に座り込んだ。両手に印を結ぶと祈り始めた。太郎は生まれて初めて本気で神に祈った。飯道権現、熊野権現、不動明王、天照大神(あまてらすおおみかみ)、八幡大明神など、太郎は知っている限りの神や仏に祈った。
辺りは急に静かになった。皆が太郎を見つめていた。太郎坊という天狗を見つめていた。
太郎は何も考えずに、ただ、ひたすら祈った。自分の回りに集まっている人々の事も忘れた。山奥にたった一人でいるような錯覚を覚えた。
太郎の脳裏に、いつか、阿星山の頂上で見た、釈迦如来の姿が浮かんだ。太郎はあの釈迦如来にひたすら祈った。どれ位、祈っていただろう。太郎は釈迦如来が微笑したように思えた。
太郎は静かに立ち上がると、空を見上げ、回りを見回した。村人たちは太郎にすがるような目をして見つめていた。
太郎はもう一度、祈ると、ゆっくりと撞木(しゅもく)の綱を握り、軽く後ろに引き、勢いをつけ、もう一度、思い切り後ろに引き、鐘を撞いた。
鐘の音は山の中に響きわたった。
人々は一斉に天を見上げた。
雨は降らなかった。
村人たちがガヤガヤし始めた。
太郎は天を見上げたままだった。
望月が近づいて来て、「どうする」と囁いた。
太郎は答えなかった。
辺りが急に暗くなり始めた。雲が物凄い速さで動いていた。
ポタッと太郎の天狗の面に雨が一粒、当たった。
「雨じゃ!」と誰かが叫んだ。
「雨じゃ!」とまた、別の者が叫んだ。
ザーッと雨は急に降って来た。
乾いていた樹木に雨は勢いよく降り付けた。
天を仰いでいた人々の顔にも容赦なく降り付けた。
「やったぞ、雨じゃ、雨じゃ!」
村人たちは皆、小躍りして喜んでいた。
望月も芥川も三雲も服部も皆、飛び上がって喜んだ。
太郎は天狗の面をしたまま雨の中で喜ぶ村人たちを見下ろし、天に向かって釈迦如来に感謝した。


ラベル:陰の流れ
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