駿府から一山越えた石脇の早雲庵にも正月はやって来ていた。早雲庵の正月は、これといって普段と余り変わりないが、それでも何となく、みんな浮き浮きしていた。早い話が、正月だというのに行く所もない連中がゴロゴロしているのだった。
早雲は狭い庵(いおり)の中に誰がゴロゴロしていても何も言わなかった。一応、早雲庵と呼ばれていても、早雲自身、この庵が自分のものだとは思っていない。小河(こがわ)の長谷川次郎左衛門尉が早雲のために建ててくれたものだったが、早雲は来る者は拒まなかった。別に歓迎するわけでもないが追い出す事もしない。来たい者は来たい時に来て、出て行きたい時に出て行った。
今年の新年をここで迎えたのは七人だった。主の早雲、富嶽(ふがく)という名の絵師、三河浪人の多米(ため)権兵衛、銭泡(ぜんぽう)と名乗る乞食坊主、円福坊という越後の八海山の老山伏、大和から来た鋳物師(いもじ)の万吉、そして、春雨という女芸人が狭い早雲庵で新年を迎えていた。
富嶽、多米、円福坊、万吉の四人は早雲庵の常連だった。富嶽と多米の二人は、すでに、ここの住人と言えるし、円福坊と万吉の二人は年中、旅をしていて、この地に来ると必ず早雲庵に顔を出し、しばらく滞在しては、また旅に出て行った。二人共、早雲がこの地に庵を建てるまでは、小河の長谷川次郎左衛門尉の所に世話になっていたが、次郎左衛門尉の屋敷よりも、こっちの方が気楽なので、いつの間にか早雲庵の常連となっていた。今回、たまたま年の暮れに早雲庵に来た二人は、そのまま、ここで新年を迎えた。
早雲がこの地に来て、すでに三度目の正月だった。去年の正月も一昨年の正月も、今年のように七、八人の者が早雲庵にいたが、女が居座っているのは初めての事だった。
春雨という女は年の頃は二十七、八の京から来た踊り子で、去年の十二月の十日頃から、ここに居着いてしまっていた。





ラベル:陰の流れ
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今年はもっと絡めるように
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