愛洲水軍の大将の倅、愛洲太郎(後の移香斎)は応仁の乱をこの目で見ようと京都へと旅立ち、その悲惨な有様を見て、故郷に帰ってからしばらく放心状態でいましたが、今の世は強くならなければ何もできないと剣術の修行を始めます。
山の中で風眼坊(後の風摩小太郎)という熊野の山伏と出会い、その強さに驚いて、剣術を教えてくれと頼みます。毎日、厳しい修行に明け暮れていたある日、風眼坊は気分転換だと言って、2人は酒を酌み交わします。その時、京都の戦の話になって、
「京ではまだ、戦をやってるんですか」と太郎は師の風眼坊に聞きます。
「まだ、やってるな」と風眼坊はうなづいて、「この戦が終われば何かが変わるだろう。お前、京に行ったとか言ったな。あの京を見て、どう思った」と太郎に聞きます。
「ひどすぎます。人間が虫ケラのように殺されていました‥‥‥特に、足軽たちのやり方は汚くて、ひどすぎます」
「足軽か‥‥‥確かに、奴らのやり方は汚い。だが、奴らだって初めから、あんな足軽だったわけじゃない。奴らのほとんどは食えなくなって地方から出て来た百姓や、一揆や戦で焼け出されて住む所も失った連中たちだ。それに、奴らはただ、武士にあやつられているだけだ。奴らが百人死のうが千人死のうが、武士たちにとって痛くも痒くもないからな。奴らを当然のように前線に送り込んでいる。今、京で戦をやってるのは足軽だけじゃろう。東軍に雇われた足軽と西軍に雇われた足軽が前線で戦っている。武士どもは後ろの方で高みの見物じゃ。こんな事やってても足軽の死体が増えるだけで、戦の決着など着くはずがない。しかしな、足軽の奴らだって生きるために必死になってるんじゃ。死にたくないと思うのは誰だって一緒だ。百姓だろうと足軽だろうと武士だろうと、たとえ、虫ケラだってな‥‥‥いいか、物事というのは一つの視点だけで見てはいかんぞ。あらゆる視点から見なくてはいかん。今の世の中を見るのも武士の目から見た今の世と、百姓から見た今の世と、足軽どもから見た今の世は全然、違う。しかし、どれが正しくて、どれが正しくないという事もない。みんなが正しい。わかるか。物の本質というのをはっきりと見極めなくてはならん。難しい事じゃがな‥‥‥お前は水軍の大将になるんだろう。大将は特に、それが必要じゃ」
風眼坊の言ったその言葉は後々までも太郎の脳裏に残る事になります。





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