赤城山に籠もって修行を積んでいた針ヶ谷夕雲は剣の極意は「相打ち」だと悟り、その事を和尚に話します。和尚は頷きますが、「おぬしに面白い話をしてやろう」と言って、夕雲に話を聞かせます。
「何年か前、わしが京都のお寺にいた頃の事じゃ。わしがいたお寺に大ネズミが住み着いたんじゃ。その大ネズミは昼間っから人前に出て来て暴れ回った。仏像は倒す、お経は食い散らかす、お供え物はみんな食ってしまう。坊主たちが座禅していれば調子に乗って頭の上に乗って来る始末じゃ。坊主が総出で捕まえようとしても、とても手に負えん。仕方なく、近所から猫を何匹か借りて来て離してみたんじゃが、どの猫も、その大ネズミには歯が立たんのじゃ。困り果てていると檀家(だんか)の一人が、どんなネズミでも必ず捕るという猫を持って来た。その猫を見ると、どう見ても、ネズミを捕るような勇ましい猫には見えんのじゃ。老いぼれて、ぼんやりとした気の抜けたような頼りない猫じゃった。しかし、せっかく持って来てくれたのじゃから、とにかく、やらせてみろという事になった。ところが、その猫を離すと今まで暴れていた大ネズミがすくんでしまって、まったく動けんのじゃよ。老いぼれ猫はのそのそと動くと簡単に大ネズミをくわえてしまったんじゃ。それは、あまりにもあっけなかったわ。そして、その夜の事じゃ。坊主たちが寝静まった頃、猫どもがその老いぼれ猫を中心に話し合いを行なったんじゃ。まず、初めに口を切ったのは若くて鋭い黒猫じゃった。
『わたしは代々、ネズミを捕る家に生まれ、幼少の頃から、その道を修行し、早業、軽業、すべてを身に付け、桁(けた)や梁(はり)を素早く走るネズミでも捕り損じた事がなかったのに、あのネズミだけはどうしても‥‥‥』と悔しがった。
老いぼれ猫はそれを聞いて、黒猫に対して、こう答えたんじゃ。
『お前が修行したというのは手先の技だけである。だから、隙に乗じて技を掛けてやろうとして、いつも狙っている心がある。古人が技を教えるのは形(かた)だけを教えているのではない。その形の中には深い真理が含まれているんじゃ。その真理を知ろうとせず、形式上の技だけを真似るようになると、ただの技比べという事になり、道や理に基づかんから、やがて、それは偽りの技巧となり、かえって害を生ずる事となる。その点を反省して、よく工夫するがいい』とな。
次には、いかにもたくましくて強そうな虎毛の大猫が出て来て言った。
『わしが思うには武術というものは要するに気力です。わしはその気力を練る事を心掛けて参りました。今では気が闊達至剛(かったつしごう)になり、天地に充満するほどです。その気合で相手を圧倒し、まず勝ってから進み、相手の出方次第で自由に応戦し、無心の間に技がおのずから湧き出るような境地になりました。ところが、あのネズミだけは、わしにもどうする事もできませんでした』
老いぼれ猫はそれに対して、こう答えた。
『お前が修練したのは、気の勢いによっての働きで、自分に頼む所がある。だから、相手の気合が弱い時はいいが、こちらよりも気勢の強い相手では手に負えんのじゃ。あのネズミのように生死を度外視して、捨て身になって掛かって来る者には、お前の気勢だけでは、とても歯が立たん』
次には、少し年を取った灰色の猫が出て来て言った。
『まったく、その通りだと思います。わしもその事に気づいて、兼ねてから心を練る事に骨折って参りました。いたずらに気色ばらず、物と争わず、常に心の和を保ち、いわば、暖簾(のれん)で小石を受ける戦法です。これには、どんなに強いネズミも参ったものですが、あのネズミだけは、どうしても、こちらの和に応じません。あんな物凄い奴は見た事もありません』
老いぼれ猫は答えた。
『お前の言う和は自然の和ではない。思慮分別(しりょふんべつ)から和そうと努めている。分別心から和そうとすれば、相手は敏感にそれを察知してしまう。わずかでも思慮分別にわたって作為する時は、自然の感をふさぐから、無心の妙用など到底、発揮できるものではない。そこで思慮分別を断って、思う事なく、為す事もなく、感にしたがって動くという工夫が必要じゃ。けれども、お前たちの修行した事が無駄かというと決してそうではない。技といえども自然の真理の現れであるし、気は心の用をなすものじゃ。要は、それらが作為から出るか、無心から自然に出るかで、天地の隔たりができるのじゃ。しかし、わしのいう所を道の極致だと思ってはならん。わしがまだ若かった頃、隣村に一匹の猫がいて、朝から晩まで何もしないで居眠りばかりしておった。さっぱり気勢も上がらず、まるで木で造った猫のようじゃった。誰も、その猫がネズミを捕ったのを見た事もない。けれども、不思議な事には、その猫のいる近辺には一匹のネズミもいなくなるんじゃ。ネズミが密集している所へ連れて行っても同じで、たちまち、ネズミは一匹もいなくなってしまう。わしはその猫にその訳を聞いてみたが、ただ笑うだけで答えてくれなかった。いや、答えなかったのではなく、答えられなかったのじゃ。その猫こそ、本当におのれを忘れ、物を忘れ、物なきに帰した、神武にして殺さずの境地じゃ。わしなどのとても及ぶ所ではない。皆さんも頑張るように』と老いぼれ猫はのそのそと帰って行ったそうじゃ」
夕雲はじっと考えています。
「どうじゃな。今のおぬしは老いぼれ猫じゃな。どうする。まだ、上があるぞ」
和尚はうまそうに酒を飲むと、静かな目で夕雲を見つめました。




ラベル:武芸者