2008年09月16日

夢庵肖柏の台詞

陰の流れ 第四部・早雲登場 17.五条安次郎」より夢庵肖柏の台詞


今川家の武士を辞めて連歌師になろうと決心した五条安五郎(後の宗長)は甲賀の飛鳥井屋敷にいる種玉庵宗祇を訪ねます。そこで出会ったのが、宗祇の弟子になろうとしていた夢庵(牡丹花)肖柏です。夢庵の茶室に掛かっている一休禅師の墨蹟を眺めながら、安次郎は一休の事を夢庵に尋ねます。


「一休禅師殿ですか‥‥‥一体、どんなお人なのです」と安次郎が聞くと、

「どんなと言われてものう。言葉で言い表せるようなお人ではないのう。しいて言えば、鏡のようなお人かのう」と夢庵は答えます。

 鏡のような人と言われても、安次郎には何だか、さっぱり分かりません。

「どういう意味です」と安次郎は聞いた。

「言葉で説明するのは難しいのう。鏡というのは顔とかを映すじゃろう。一休殿は、その人の心を映すとでも言おうかのう」

 夢庵はしばらく間をおいてから話を続けた。

「一休殿のもとで修行をすれば分かるが、一休殿の側におると、不思議と自分というものが見えて来るんじゃよ。本物の自分の姿と言うものがな。わしらが普段、自分だと信じておるものは、実は偽(いつわ)りの姿で、本物の自分というものは奥の方に隠れておるんじゃ。その奥の方に隠れておる本物の自分というものが、見えて来るような気がするんじゃ。人間は生まれながらにして色々な物を背負って生きておる。身分だとか、地位だとか、財産だとか、その他、色々な物を知らず知らずのうちに身に付け、それら、すべてを引っくるめて自分だと思い込んでおる。しかし、それは仮の姿、偽りの姿に過ぎんのじゃ。身に付けておる、あらゆる物を捨てて、捨てて、捨てまくって、何もなくなった時、初めて本当の自分の姿が現れて来るんじゃ。それが、本来無一物の境地と言って、何物にも囚われない境地じゃ。茶の湯のおいて、その境地に至らないと名人とは言えないと珠光殿は言っておられた。連歌においても、その境地まで至らないと名人とは言えないと宗祇殿も言っておられた。連歌の場合、歌を作ろうと思っておるうちは、まだ、駄目じゃと言う。前の句を聞いたら、何も思わず、フッと次の句が浮かんで来るようにならなくては駄目じゃと言うんじゃ。禅問答と同じじゃな。質問されたら、すぐに答えなくてはならん。考えたり、迷ったりしておっては駄目なんじゃ。事実、宗祇殿の連歌は禅問答のようじゃった。前の人が句を詠むと、初めから、そういう歌があったかのごとく、間をおかずに、次の句を詠み上げるんじゃ‥‥‥わしは禅僧ではないが、禅というのは、あらゆる芸の道につながっておるように思えるんじゃ。茶の湯においての珠光殿の流れるような手捌き、あれはまさしく動く禅じゃ。ああしよう、こうしようと思ってできるものではない。自然と同じじゃ。風が吹けば樹木や草花はそよぐ。そこに一点の迷いはない。それは武術にも言えるんじゃ。わしは以前、智羅天の岩屋で、太郎坊殿と太郎坊殿の弟子の試合を見たんじゃ。あれもまさしく、動く禅じゃった」

「禅ですか‥‥‥」

「おぬし、山に籠もって書物を読むのもいいが、一休禅師殿のもとで修行するのもいいかもしれんぞ。何もかも捨ててみて、生まれ変わって見るのもいいかもしれん。その後、どうしても連歌の道に入りたかったら戻って来るがいい。一休殿のもとで修行した事は決して無駄にはなるまい」

「はい‥‥‥」と安次郎は頷いた。


そして、安次郎は一休禅師を訪ねて行きます。


禅如々として生きる  名僧たちの教え  中世を創った人びと  禅僧たちの「あるがまま」に生きる知恵  心にのこる禅の名話  


ラベル:陰の流れ
posted by 酔雲 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説の中の名台詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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