小笠原源信斎は遠江の国、高天神城主だった小笠原氏の一族で、奥山休賀斎の弟子になって神陰流(神影流)を学びます。
今川家の家臣でしたが、永禄12年(1569年)に今川家が没落した後、徳川家康に従って高天神城を守ります。
天正2年(1574年)、武田勝頼に攻められて高天神城が落城した後は武田家に従います。
天正9年、高天神城は徳川家康に攻められ、再び落城します。源信斎は生き延びて北条家に仕えます。
天正18年、豊臣秀吉に攻められて北条氏は滅亡してしまい、源信斎は明の国(中国)へと渡ります。明の国で兵法を学び、「八寸の延矩(のべがね)」と呼ばれる妙術を会得します。この「八寸の延矩」という術が一体どんなものなのか、未だに不明です。
日本に帰った源信斎は神陰流を「真新陰流」と改めて、江戸に道場を開いて門人を育てます。門人は3000人もいたと言われ、神谷伝心斎が跡を継ぎます。高弟の1人に無住心剣流を開いた針ヶ谷夕雲もいました。
ラベル:武芸者
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