天文12年(1543年)8月、ポルトガル人によって種子島に新兵器の鉄砲が伝えられます。天文3年生まれの織田信長が9歳の時です。
6年後の天文18年、薩摩の島津貴久が城攻めに鉄砲を初めて使用します。同じ年に、15歳の信長は近江、国友の鉄砲鍛冶に500挺の鉄砲を注文しています。そして、天文22年、信長は妻の父親、美濃の斎藤道三と対面しますが、その時、供の兵に500挺の鉄砲を持たせています。
天文24年、甲斐の武田信玄は川中島の合戦で、300挺の鉄砲を使用したといわれています。
永禄7年(1564年)、豊後の大友義鎮が安芸の毛利元就との合戦で、1200挺の鉄砲を使用します。
元亀元年(1570年)、本願寺方に加わった雑賀衆は3000挺の鉄砲を所持していて、さすがの信長もその数には及びません。
天正元年(1573年)、近江の浅井氏を滅ぼした信長は国友の鉄砲鍛冶を支配下において、鉄砲の大量生産を命じます。
天正3年、長篠の合戦で、信長は3500挺の鉄砲を使用したといわれ、対する武田勝頼は500挺しか持っていなかったようです。
戦国草津温泉記・湯本善太夫 23.長篠の合戦





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