志佐壱岐守(しさいきのかみ)の船に乗って、サハチ(尚巴志)とヒューガは博多に着きました。
サンルーザの船は九州探題の今川了俊に睨まれていて、博多には入れなかったのです。
博多に滞在したサハチは何を見ても驚いていました。
色々な物を売っている市場に驚き、大きなお寺の建物に驚き、出陣して行く兵士たちの立派な鎧や武器に驚き、男装した女たちの華麗な舞にも驚きます。
夜更けに一文字屋の屋敷に盗賊が攻めて来て、サハチとヒューガは盗賊たちと戦います。サハチは初めて人を斬ります。そのあとはもう無我夢中で襲って来る敵と戦い続けます。
登場人物
・サハチ(尚巴志)
サミガー大主の孫。父は佐敷按司(サグルー)。
・ヒューガ
三好日向。武芸者。
サハチにとって重要な人物となる。
「陰の流れ 第一部」に智羅天として登場。愛洲移香斎に気合いの術と彫刻を教える。
・サイムンタルー
中尾左衛門太郎。対馬の倭寇の頭領、早田三郎左衛門の次男。
妻の実家の中尾家を継いでいる。
・志佐壱岐守
壱岐島の倭寇の頭領。松浦党。
・一文字屋孫次郎
坊津の一文字屋次郎左衛門の長男。博多の一文字屋の主人。
◯博多の略年表
1274年、元寇により博多の町は消失する。
1293年、鎮西探題が設置され、大宰府に代わって九州統治の中心となる。
1333年、後醍醐天皇が挙兵すると、菊池武時が鎮西探題北条英時を襲い博多の町を焼き払う。
1336年、九州へ落ち延びた足利尊氏は少弐、島津、大友らと共に菊池氏を破る。
1359年、少弐頼尚が菊池武光に筑後川合戦で大敗する。
1561年、懐良親王、大宰府を征西府とする。
1368年、元国滅ぶ、明建国。家族を連れて博多に逃げてくる元の高官たちが何人もいた。
陳宗敬、博多に亡命。
1370年、今川了俊が九州探題に任命される。
1371年、懐良親王、「日本国王良懐」の名で明の冊封を受ける。
九州探題に任じられた今川了俊の弟仲秋の軍勢、呼子港に上陸する。
1372年、太宰府陥落、懐良親王、太宰府から良山に移る。
1374年、懐良親王、良山から肥後菊池に移る。
懐良親王、遣明船を出す。
1375年、水島の合戦。今川了俊、少弐冬資を殺す。島津伊久、南朝に寝返る。
1376年、懐良親王、遣明船を出す。
1377年、肥前蜷打の戦い。北朝方の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取る。
九州探題今川了俊、倭寇が捕えた被慮人を高麗に送還する。
1378年、高麗使が訪れ、今川了俊、捕虜の送還を行なう。
今川了俊、兵を高麗に派遣して現地の倭寇討滅に協力する。
1379年、今川了俊、捕えた壱岐の海賊20人を甑に入れて明に贈る。
1380年、懐良親王、明の太祖暗殺の計画に同意し、兵を送るが陰謀は露顕し帰還する。
1381年、懐良親王、菊池城を攻め落とされ、金峰山に移る。
1383年3月27日、征西将軍懐良親王没。
島津伊久、薩摩守護に復帰し、今川了俊に帰順する。
1385年、相良氏が島津と和睦して了俊に背き禰寝氏も南朝方に走る。
1387年、阿蘇山噴火。
島津氏久が没すると肥後は今川義範・日向は今川貞満がほぼ制圧する。
相良前頼、球磨から反撃を加えて征西府の危急を救う。
1388年、今川了俊、捕虜送還と引き換えに高麗に大蔵経を要求する。
1390年、今川了俊、良成親王と菊池武朝の宇土・河尻を落とす。
1391年、今川了俊、良成親王と菊池武朝の八代城を落とす。親王らは矢部に逼塞する。
1392年、南北朝の合一。
1395年、今川了俊、九州探題を罷免され、渋川満頼が任命される。
◯倭寇略年表
1274年、元寇。
1281年、元寇。
1350年4月、倭寇100余艘が高麗の順天府を襲い、穀物を奪う。
1351年8月、倭寇130艘が高麗を襲撃する。
1355年4月、倭寇230艘、高麗全羅道の漕船200余艘を略奪。
1357年、高麗の武将崔瑩が2万5600の大軍で済州島の反乱を制圧する。
1358年、この頃より中国大陸に倭寇が出現する。
1361年8月、懐良親王、少弐氏の太宰府を落とし、太宰府を征西府とする。
1363年4月、倭寇213艘が高麗を襲撃。首都開城を脅かす。
1364年3月、倭寇200余艘が高麗の河東、固城を襲撃する。
1364年5月、高麗軍、鎭海県で倭寇3000人を斬る。
1367年、高麗、使者を送り, 室町幕府に倭寇の禁圧を求める。
1368年、元国滅ぶ、明建国。
1371年6月、倭船200艘、明の海晏を襲う。
1371年11月、九州探題に任じられた今川了俊の軍勢、肥前呼子港に上陸する。
1372年5月、倭船200艘、明の温州府、永嘉、楽清の諸県を侵す。
1372年8月、太宰府落城。懐良親王、太宰府から良山に移る。
1374年4月、倭寇350艘が高麗を襲撃。高麗の水軍、大敗して死する者5000人。
1375年、済州島で反乱が起こる。倭寇200余艘が済州島を攻める。
1377年6月、倭寇200余艘が高麗を襲撃。
1377年11月、倭寇130艘が高麗を襲撃。
1377年、この年、高麗は54回の倭寇の襲撃を受ける。
1379年5月、倭寇騎馬700、歩兵2000余で高麗の普州を襲撃。
1380年5月、倭寇100余騎、高麗の結城共州を襲う。
1380年5月、高麗、火砲を搭載できる船を100隻、3000名の水軍部隊が創設する。
1380年8月、倭寇500艘、高麗の鎮浦口に入り、隊を分けて岸に登り州都を攻める。
1380年8月、高麗軍、崔茂宣が開発した大砲で倭船を焼く。
1380年9月、李成桂、雲峰にて倭寇の首領阿只抜都(アキバツ)を倒す。
1383年5月、倭寇120艘が高麗を襲撃するが撃退する。
1385年9月、倭寇150艘が高麗を襲撃するが李成桂、李豆藺に撃退される。
1388年5月、李成桂、軍事クーデターで高麗の実権を掌握。
1389年2月、高麗、対馬を攻撃する。
1392年7月、李成桂、恭譲王を廃位して、高麗王として即位する。
1393年、明の洪武帝の命令により、高麗から朝鮮に国名が変わる。