何となく、浅間山がぼやけているように見えた。寝不足で目がかすんで来たかと目をこすった時だった。物凄い強風が浅間山の方から吹いて来た。とても立ってはいられない。市太は身を伏せ、這いながら、おろくたちの方に向かった。
女衆がキャーキャー騒ぎ出した。ドサッと何かが倒れ、バリバリッと木の枝が折れる音がした。誰かが怒鳴っているが風の唸りで聞こえない。信じられないが、その強風は熱かった。熱風が浅間山から吹いていた。このままだと着物が燃えてしまうのではと思えるほど熱かったが、熱風はすぐに治まった。
「一体(いってえ)、ありゃア何だったんだ」
市太は顔を上げるとおろくと三治を見た。三治が市太の顔を見て、急に笑い出した。強風で元結(もっとい)が切れてザンバラ髪になっていた。おろくも笑って、自分の頭巾を脱いで市太に渡した。
「いいよ。おめえが被ってろ」
「だって、その頭じゃ恥ずかしいでしょ。石が降って来たら返してもらうわ」
「そうか」
市太は頭巾を被って、ザンバラ髪を隠した。回りを見ると石燈籠(いしどうろう)や石塔(せきとう)が倒れ、折れた太い枝があちこちに落ちていた。幸い、怪我人はいないようだ。
浅間山を眺めると今度ははっきりと見えた。黒煙を吹き上げ、馬鹿にしたように黒い舌を出している。しばらく、ざわついていたが、強風も治まり、何事もなさそうなので、女衆は安心して座り込んで、また拝み始めた。
市太はもう行こうとおろくを促したが三治が言う事を聞かなかった。じっと拝んだまま、動こうとはしない。
「まあ、いいか。うちに帰ったって潰れちまったんじゃアしょうがねえ。ちょっと話があるんだ」
市太はおろくを誰もいないお堂の裏の方に誘った。
「叔父さん、大丈夫かしら」
「みんながいるうちは、ああやって拝んでるだんべ。心配(しんぺえ)ねえ」
おろくはうなづいて市太の後を追った。観音堂の裏は深い森になっている。森の中に少し入って切り株に腰を下ろすと市太は手を差し出した。
おろくは笑い、「なアに、話って」と市太の手を握る。
市太はおろくの手を引っ張り、抱き寄せて、自分の膝の上に乗せた。
「ダメよ。誰かに見られたらどうするの」
「見られたっていいじゃねえか」と市太はおろくの口を吸う。
しばらく抱き合っていたが、ガサガサという物音で、おろくは慌てて市太から離れた。
「鳥が飛んでっただけだ」
「だって、みんなが真剣に拝んでるのに」
「俺たちだって真剣さ。話ってえのは、うちの事だ。武蔵屋の前(めえ)に貸本屋を作るって言ったんべ。でもよう、どうせ建てんなら、武蔵屋の前だんべが、おめえんちの土地だんべが同じこった。あそこに貸本屋を建てりゃアいい。みんなが一緒に暮らせるようなうちをな」
「そうなれば嬉しいけど、そんなにうまく行くかしら」
「祭りが終わる頃にゃア、きっと、うまく行ってるよ」
「お祭りできるのかしら。うちをなくした人も多いし、怪我した人もかなりいるみたいだし」
「だからこそ、景気づけにやらなきゃアならねえんだよ」
「今晩はお稽古ができるといいのにね」
「もう大丈夫だんべ。さっき、熱風が吹いたんはお山の腹ん中が空っぽになったのかもしれねえ」
「そうか。そうよ、きっと。もう、あんな恐ろしい目に会わなくてもすむのね」
「もういらねえ。ぐっすり眠りてえよ」
しかし、そううまい具合には行かなかった。ドガーンと耳をつんざく音が鳴り響き、また、お山が大爆発を起こした。市太はおろくを抱き寄せ、森から飛び出すと身を伏せた。大きな揺れも始まった。お堂がミシミシ唸っている。
「ここも危ねえ」
二人はお堂の側から離れて、表の方へと向かった。女衆は恐怖に脅(おび)え、顔を引きつらせて身を伏せている。やがて、砂や石が降って来た。市太は頭巾を脱ぐとおろくに被せた。キャーキャー騒ぎながら、女たちは若衆小屋を目がけて走り出した。市太とおろくも後を追う。若衆小屋は人であふれていた。
石はすぐにやんだ。その代わりに今まで聞いた事もない音が響き渡った。
「ヒッシオヒッシオヒッシオ」と何かが押し寄せて来る音だった。
何事だと人々は耳を澄ましながら小屋から出て、観音堂の側まで行って浅間山を眺めた。何と浅間山が見えなかった。そして、黒い大きな固まりが煙を上げながら、こちらに近づいて来る。
「お山が動いている」と誰かが叫んだ。
「大変(てえへん)だ、大変だ、逃げろ、逃げろ」と皆、騒ぎ出した。
騒ぎ出したが皆、どうしていいかわからず、オロオロしている。市太はおろくの手を握ったまま、じっと正体不明な物を見つめていた。
「一体、ありゃ何なんでえ。お山が動くわけがねえ。煙は出てるが火のようでもねえ」
「あっ、叔父さんがいない」おろくが叫んだ。
「なに」と市太は回りを見回す。
青ざめた女たちの顔が目に入るが三治の姿は見当たらない。
「叔父さん」と叫びながら、おろくは若衆小屋の方に行った。市太も後を追った。
小屋の中には誰もいなかった。小屋の回りや観音堂の裏も見たがいない。
「どこ行っちゃったんだろ」
「大丈夫さ。三治が一人でいるのを誰かが見つけて、うちまで届けてくれたんだんべ」
「それならいいんだけど‥‥‥」
「うちに帰ってみりゃわかるさ」
市太とおろくが帰ろうとして石段の方へ向かうと黒煙が観音堂のすぐ側まで来ていた。
ゴーゴーという唸り声とパチパチと何かが弾けるような異様な音が響き渡り、ドスーンと何かが当たったような音が響き渡った。大地が揺れ、観音堂は煙に包まれて、何も見えなくなった。揺れはしばらく続いた。
「一体(いってえ)、どうなってんでえ。お山がここにぶち当たったのか、畜生め!」
「若旦那か」と煙の中から声がした。
「半兵衛か」と市太は聞く。
「そうじゃ。大丈夫か」
「ああ、大丈夫みてえだが」
煙だと思ったのは土埃だった。やがて、消え、半兵衛の姿が見えた。
「若旦那、その面は何でえ。まるで、河童(かっぱ)が娘っこを手籠(てご)めにしてるようだぜ」
「なに言ってやんでえ。それより、半兵衛はどうして、こんなとこにいるんだ」
「人手が足らなくてな、誰かいねえかと捜しに来たんじゃ」
「そうか。馬の方は足りたのか」
「ああ、大丈夫だ」
「大変だ、大変だ、みんな、来てくれ」
誰かが石段の所で怒鳴っていた。若衆頭の杢兵衛だった。
おろくを立たせ、市太が半兵衛と一緒に杢兵衛の所に行くと杢兵衛は何も言わず、石段の下を指さした。
見るとそこには信じられないものがあった。石段が十五段しかなかった。そこから先は土砂で埋まっている。辺り一面、土砂が広がっていて鎌原村は消えていた。土砂は乾いていて、所々に大きな石や黒い焼け石、樹木の枝や太い幹(みき)が混ざり、ゴロゴロと転がっているのもあった。
「まさか」と市太もおろくも半兵衛も自分の目を疑った。
こんな事が起こるはずはない。絶対に信じられない。ここまで土砂が来ているという事は、村はすべて埋まってしまったという事だった。観音堂にいた者たちも集まって来て、石段を覗き込んだ。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」と誰かか騒いで、ワァッと泣き始めた。
百姓代の仲右衛門が人込みを押し分けて顔を出し、「何だ、こりゃア」と叫ぶと石段を下りて行った。十五段の所で立ち止まって遠くを見回し、「おーい、みんな、大丈夫か」と叫ぶと、よろけるようにしゃがみ込んだ。
それを見ていた杢兵衛は腰が抜けたようにヘナヘナと崩れた。おろくも急に気が遠くなったように市太の腕の中に倒れ込んだ。
タグ:浅間山
【小説の中の衝撃的な場面の最新記事】






